のびた系男子の日記

ADHD(グレー)のなのでその対策の備忘録として

障害者雇用はすすみません(白目)

障害者雇用はすすみません(白目)

 

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某日、冬。障害者雇用での就職を検討していたので、私はハローワークにて求人検索をしていた。ハローワークの明かりは妙に薄暗い。どうも気分が滅入る。

 

今、見ているのは市役所や国家公務員の非常勤求人である。求人の内容を見てまた更に気分が滅入っていたところだった。

 

「※但し身体障碍者に限る」

「身体障碍者専用求人」

 

……。役所の採用試験の募集資格だ。これを見ると「役所も大変なのは分かるが、いくらなんでもこれはね。」という気分になる。ならないだろうか?私は大いになるのである……。

 

「行政て障害者を支援する役割やろ、んな馬鹿らしい話ね-わ!これじゃ、障害者雇用を進めようとする民間企業に示しがつかないだろ!」という具合にムカつくなどしてしまう。

 

 

……。少々荒れてしまった。

 

まぁとにかく、こういう光景は、まさに知的・精神障害者の雇用の難しさが現れている瞬間であるように思う。国や地方公共団体ですらこの扱い。勿論、こうした傾向は民間企業にも見られる。身体障害者のほうが就職に有利な傾向はあるようである。

 

 

 こういう傾向を見ると、結局のところ、企業が行政機関が求めているのは「かたち」の支援にすぎない、という事を実感させられる。「かたち」の支援って何かというと「こうすれば障害者だけどそこそこ働けますよ」とハッキリ分かるパッケージプランの事だろうか。

 

 月並みだけど身体障害者なら「かたち」の支援が通用しやすい。身体障害は目に見える。だから、「かたち」の支援が出来やすい。歩けない人には、スロープを用意するなり作業をしやすい机を置くなどすれば目に見えてやりやすくできる。それなりに整理されたパッケージプランは威力を発揮しやすいんじゃないだろうか?最近はそんな事を考えている。(※とはいえ、身体障害者達の方なりの苦労がある事は、私には見えないけれどある事は、最低限認識しているつもりではあるが……)

 

 一方、知的障害・精神障害は身体障害とは違って物理的な機能は揃っている。その代り、精神活動上の支障が問題になる。だからこそ、わかりにくい。

 

 最近よく思うのだけれど人間は一人一人違う。親も違えば、経済的な条件も違う。住んでいる場所も友人も違う。色んなものが、とにかく違う。障害もきっとそうなんだろう。知的・精神障害の程度も勿論違う。

 

だけど、企業や行政はこうした知的・精神障害者達にも「かたち」の支援を欲しがっているような気が最近はしている。「とりあえずこれを適用すれば良い」という「かたち」であり「パッケージプラン」である。

 

こうした支援を受けると、なんとなく押しつけられたような気分になる。「お前らにはこうしときゃそれでいいんだろ。」と言われたような感じに近い。だけど、精神障害者にはこういう「かたち」の支援は馴染まない。障害内容に個人差があるからである。身体・知的・精神障害者の就労状況を見る機会が多くなった今、就労活動を通じてこういう事を感じている。

 

こうした支援に対して勿論いい気分はしない。言い方は悪いが「雑」という印象を覚えないだろうか。支援として投げやりである。そんな気分はしないだろうか?身体障害者の方々も表面上の支援だけしか受けれないし、知的・精神障害者はイマイチ合っていない不快な支援を受けることになる。身体障害者も知的・精神障害者も「かたち」の支援にウンザリする事は無いだろうか?

 

 

こういう、「かたち」の支援にはあるものが決定的に足りないように思う。それは、「その人への関心」なのではないか。

 

「どうやったら伸びてくれるか?」という事を考えてたり、「どうやったらやりやすいだろうか?」という事を建設的になって考える姿勢である。それは、「その人を理解する事」に通じる。それこそが「他者に対する関心」であると私は思う。

 

むやみやたらに怒って伸びる人もいれば、そうでない人もいる。怒って伸びる人には、ある程度怒って伸ばすというやり方は有効かもしれない。だけど、そうでない人には勿論有効ではない。そういう人には定期的に成功を実感させるような経験を得て貰って、自信を持ってもらうように工夫するとか、そういう方法が良いだろう。こうした事を日常から探り当てる事は出来ないのだろうか。その作業こそが「関心を持つこと」ではないか。

 

「どうやったら、ミスが減るか?忘れ物が減るか?」

「どうやったら安心して貰えるか?」

 

こうした事を建設的に考える事が、障害への対策になる。むやみやたらに否定せず、障害者が安心して働けるような態度で接するとか、一緒に対策をやりやすい環境ややり方を整えるなりして、「心を汲む」事は出来ないのだろうか。彼らの生きやすさはそうして作られるはずだし、「その人自身をよく見る」考え方って出来ないのだろうか?もっといえば、障害者だけでなく、健常者にもこういう「育成」をする事は出来ないのだろうか。

 

そして、「かたちの支援」だけではこうした部分に手が回らないのではないだろうか。だからこそ、「関心を持つこと」は重要ではないだろうか。

 

とはいえ、企業も慈善事業でないし、難しい部分が多数あるのだろう。採算をとらなければいけない難しさも背負っている。自分のような社会を知らんプー太郎がこんな事を言ったって、企業にとってはそうはいかない事情もあるのだろう。ただ、障害者にせよ健常者にせよ人が育つにはこうした視点が必要であるように思うのである。こうした目線で育てるからこそ、いざという時の本当の強さが出てくるのではないかとも思うのである。

 

だから、こうした本当の意味での「育成」を考えなければ本当の障害者雇用は成立しないように思う。障害者雇用が進むためにはこうした視点が必要なのではないか、と最近おぼろげながらに思い、記事とさせて頂いた。

 

 

≪終わり≫

発達障害者、○○の活用術

ADHD発達障害者、○○の活用術

 

 「あっ。先方に電話するの忘れてましたンゴ!!ヤバいンゴ!!!

 

→「グエー死んだンゴ(詰められる)」

 

あっ、しまった!!今日病院だったですンゴ!!しまったンゴ!!!ンゴ!!

 

→「グエー死んだンゴ」(結局行けず)

 

……。

 

 みなさんこんばんは。夕食後のお茶と一緒に怪文書はいかがでしょうか。こんなことってありません……?

 

チラ裏系ブログに該当する当ブログなのですが、このブログを読んで下さってる方がいれば多分発達障害者関係かなぁ~と思っているので冒頭のような経験はあるかと思います。

 

そんなわけで、(だいぶ高価ですが……2万~5万ぐらい。高いわボケという声もあるかと思いますがご容赦を。)役に立ちそうなアイテムひとつご紹介です。

 

 

 なんだかんだで書くのが好きな部分もあるのでブログを今日もせっせと書いています。今までは資格に力を注いでいたぶんあまり書けなかったのですが書いてみようと思います。よろしくお願いします。

 

 

  • スマートウォッチ

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実は去年の冬からこいつを生活の中に取り入れるようにしました!

 

 

いわゆるスマートウォッチです。こいつ、発達障害者の頭を補完するのには一部ですが結構使えるのではないかと思うのです。

 

発達障害を持っていると、どうにも自分の頭のスペック不足をどうも感じがちなように思うのです。頭に機能が足りていないような感覚……。それを感じるような事はどうにも多いような気がするのです。

 

 用事を忘れてしまうこととかが結構続くと自分の頭の中のメモ帳が足りないような気がしてどうも仕方がなかったのです。

 

 定型発達の人はふつーに、メモ帳を自由自在に操っているのですが、私たちの持っている頭のスペックではどうも根本的に足りていないような気がしていました。だから、補完するモノが欲しい…と思っていたのです。

 

と、いうわけでこいつを生活に導入してみました。生活や仕事上のミスなんですが、一部のものにはなかなか効果的なように思いましたのでつらつらと書かせていただきます。

 

 

  • どういうことに使えるか??

 

 この、スマートウォッチですが予定系には結構強いです。書類の抜け漏れをチェックするとかそういう系のミスを防ぐのには残念ながら使いにくいんですが、スケジュール管理をスマホと連動させて行う事で自動的にアラームしてくれたりします。僕のスマートウォッチはスマホにメモをして時間を設定するとスマートウォッチのバイブレーションが時間通りに鳴ってくれるように設定してあります。

 

これがやっぱりでかいです。手帳なりメモだとどうしても忘れてしまう時は忘れてしまうんですよ。けど、機械で記録できてれば漏れない。

 

 ここらへんが手帳による管理で出来ない事なのかなぁと思います。いちいち管理するのもこれに比べたら面倒ですし……。スマホと一元管理することで、持ち運びの便利さもあります。

 

 決まった時間に特定の仕事があるときとかだとこれは特に強いです。私は前職が信用金庫(地域性が強い銀行みたいなものです)だったのですが、9時に銀行は開店し、3時に銀行は閉店します。その時の開閉店を新人だった私は頼まれていたのですが、たまに他の仕事に集中してしまってすっぽかす事がありました。こいつを導入して、9時前、3時前にバイブレーションを鳴らすように設定しておけば結構忘れにくかったです。僕が忘れていてもひとりでに鳴ってくれるので教えてくれるのです。

 

 あと、ちょっとした用事とかをメモする時にも忘れにくいです。「後でお客様に電話をしてほしい」という感じのちょっとした事を頼まれた時にも忘れにくいです。スマホからメモしてアラームを設定しておけば後は設定した時間にバイブレーションで教えてくれるので忘れにくいです。

 

 わざわざスマホからメモをする時間がない時は「おkグーグル。○○分後にアラームを鳴らして。」などど時計に向かって発音して設定しておけばいいかもですね。とりあえず、○○分後にアラームが鳴ってくれるので、その時に「なんでアラーム設定したんだっけなぁ」と考えることが出来ればバッチグーです。「あっ。電話かけなきゃ!!」等と用事を思い出すきっかけにはなります。

 

 僕はまだ使ってないのですが、場所でメモや用事を通知してくれたりもします。コンビニによるついでに、何か買っておくようにあらかじめリマインダーを設定しておく等していれば、買い忘れややり残しは防ぎやすいのかな、と感じます。

 

 あとこれはあまり役に立たないかもしれないですが、算数障害の方は咄嗟の計算が出来るので少し便利かもしれません。ちょっと時間はかかるのですが、スマートフォンの電卓アプリと連携して計算することができます。数字を足す引くかける割るという考え方が分かっていて声に出して話せる方であれば、計算が出来ます。もっとも、スマホの電卓で充分ではあるのですが……。

 

  • さいごに

 

 そんなこんなで、スマートウォッチでADHD対策をしてみたのでそれを書かせていただきました。やはりネックは値段でしょうか……。たかがこれだけの事に数万円は嫌ですよねー……。Android  wearを搭載しているやつだと2~3万します。私が使ってるのがfossil Qという機種なのですが確か2万5千円くらいでした。なかなか高いです……。あと、職場で「OK google」はちょっと恥ずかしい…。という事ですかね。別に言わなきゃバレはしにくいですが。

参考までに、私が使ってるやつ↓

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%AB-FOSSIL-MARSHAL-%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81-FTW2109/dp/B01LXHENPR/ref=pd_sbs_241_6?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=0GYE4SZBVJQ3AF0J55YN

 

Android wear なりwatch osが入っているものじゃないと多分ここまで色々な機能は使えないと思うのでご注意下さい!安い奴だと歩数計の機能とかだけしかなかったり……。(2万円以下はよく調べて買いましょう)

 

あと、スマホのOSとかもチェックしないといけないので注意です。お持ちのスマホと相談してみるのが一番でしょう。不安な場合は電気屋さんに頼りつつ選べば無難かもです。責任は申し訳ないですが負えないので買う際はよく調べて、買いましょう!高い買い物ですので!

ここらへんが参考になりそうです。↓

https://securitysoft.asia/smartwatch/caution.php

 

スマートウォッチは高いという人にはこちらがいいかも。

 

身に付けるメモには、他にいいなと思ったのはウェアラブルメモでした。ざっくりいうとリストバンドにメモする感じですね。このウェアラブルメモ、書いたら消せます!

↓ ウェアラブルメモ

https://www.amazon.co.jp/wemo-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%A2-WEMO-%E6%B6%88%E3%81%9B%E3%82%8B%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97-%E8%82%8C%E8%89%B2/dp/B077JLY1XH

 

検索してみたら分かるかと思うのですが1000円から2000円くらいで結構安い。書かなきゃいけない手間はありますが値段がイイですよね。なんだかんだ書いた方がしっくり来るかもしれませんし、身に付けてる分メモ帳や手帳よりは思い出しやすそうです。

 

 

…さて、そんなわけでごちゃごちゃ書かせていただきましたが、スマートウォッチ、まだまだ使い道はありそうです。いろいろ試して、また何か書ければなと思います。ご拝読ありがとうございました~。

同性婚を難しくしている考え方、その原因は○○に

(タイトル)

同性婚を難しくしている考え方、その原因は○○に

 

みなさんこんにちは。いつも元気にダメしてます。じゃがりこ廃人という者です。なんだか、やる気が湧いてきたので文章をせっせと書いていました。

 

同じ生きづらさを抱えている(であろう、そうでなければすみません。)LGBTの問題について、ちょこちょこ書いています。もともと、大学時代に法律を専攻していて、こうした問題が詳しく書きやすいというのもあったのと、LGBTについて、気になっていたことから書いてみようかなと思い至りました。

 

もしかしたら、LGBTの方々には憲法24条の問題は既知の事実かもしれませんし、そうではない新たな知識なのかもしれません。しかしながら、恐らくLGBTでは無い方にはさすがにこうした知識は無いかなぁと感じているので今回ブログにてアップさせていただきました。

 

LGBTでもそうでなくても、読んでもらいたいなぁ~という気持ちです。

 

今回は「憲法」とりわけ、「婚姻の自由」という人権を保障する規定である24条について記述させていただいています。同性婚を難しくしている考え方、その根源は「憲法」にあります。(タイトルの○○は、憲法っていうコトです。)法律学が分からない人にもなるべく伝わるように工夫していますが、分かりにくい点があれば申し訳ございません。

 

目次を見るとけっこうゴリゴリしてそうだなぁと感じるかもしれませんが…。

 

それでは、何卒宜しくお願い致します。

 

~目次~

  • 同性婚と法律上の取り扱い(前半)
    • 憲法上、同性婚はどう扱われるか・政府の見解
    • 裁判所の見解
  • 憲法24条の「見方」(解釈)について(後半)

・24条の条文について、同性婚否定説

・24条が制定されるまでのいきさつ(趣旨)

同性婚許容説

 

 

 

 

婚姻とは、ある2人で、社会的に認められた結合体を作り、経済的な協力体制を営む事という風に説明できます。そして、憲法の上で「婚姻の自由」という人権が保証されています。

 

婚姻の自由が保障されている……ということは、どういうことかとういうと、一般の人々の(私人の)婚姻について国は原則としては干渉を行う事が出来ず、各人がその自由な意思で結婚について選択することが出来る、という事を意味します。

 

もともと憲法ってそういう性質の法律なんです。国と国民に対する権利や義務について定めた一番ベーシックな法典が憲法です。

 

国が国民に対して保証しないといけない権利や義務、あるいは国民が国に対して負う義務や国家の運営について定めたルールなのです。

 

だから、「婚姻」という権利についても国が不当に干渉を行ってはいけませんし、その自由を保障しなければなりません。

 

それはつまり、婚姻について一人一人が自由な選択をする事が出来るという事を意味するので、特定の人を婚姻の相手に指定するとか、婚姻をすること自体を禁止するとか、婚姻をしない事を禁止することを国が一般人(私人)に行う事は、国は本来行ってはいけません。そうでなければ、婚姻の自由を保障しているとはいえないのです。

 

しかしながら、同性婚は今のところ、憲法上認められていません。政府の憲法解釈上では同性婚は認められていないのです。最大の根拠は、憲法24条です。

 

憲法24条は次のように規定されています。

 

日本国憲法

第24 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

お読みいただければ、「婚姻」は「両性の合意のみに基づいて」成立する、ということがとりあえずは条文上で表示されている事が分かります。

 

では、この憲法の上で同性婚は認められうるでしょうか。

 

直感的にこの条文を読むと、確かに憲法は「婚姻」について、その自由を認めてはいますが、「婚姻」のその中身には同性婚は含まれていない、という考え方をせざるを得ないように思います。

 

何故なら、(少なくとも条文上は)「婚姻」は「両性の合意に基づいて」成立するからです。ここでいう、両性とは男と女のつがい・組み合わせの事を指しているのでしょう。従って、同性同士の婚姻に基づいていればそれは「婚姻」とはいえず、だから「同性婚の自由」を保障しなくても「婚姻の自由」を保障していない事にはならない。

 

故に、同性婚の自由を保障していない事は憲法の趣旨に適合しているのである。(24条に違反していない)という見方が今のところの政府の解釈であります。(後からまた、触れますが同性婚否定説という考え方です。)

 

これが、行政機関の考え方です。現に市役所に同性婚の婚姻届を提出をしても受理してくれないのはこういう考え方が根幹にある事が理由です。

 

市役所内部の事務処理等も法律・内部規則及び通達に基づいて行われます。こうした法律・内部規則及び通達は憲法の趣旨によって作成されてまいりますので、どうしても同性婚を市役所で認める事は出来ないのですね。

 

  • 裁判所の見解

 

裁判所も、同様の考え方を採用しているようです。まだ最高裁判所レベルの判決は無いのですが、下位裁判所レベルでは同性婚について、伝統的な否定的見解を示しています。

 

伝統的な、婚姻の定義…つまり、男女による社会的な結合関係の形成こそが婚姻である、という事です。少し難しいですが過去に関連する裁判例があります。

 

エメリタ事件という事件が過去に起きました。フィリピン人の男性が性を詐称し日本国内に不法入国、その後に日本国内の男性と婚姻をし、役場へ婚姻届を提出した事例でした。婚姻の効力だけが問題となった裁判例ではありませんが、過去の佐賀家庭裁判所の判決においても、こうした裁判所の婚姻に対する考え方が伺えます。

 

エメリタ事件・判示(一部)

「申立人Aの本国法である日本法によれば、男性同士ないし女性同士の同性婚は、男女間における婚姻的共同生活に入る意思、すなわち婚姻意思を欠く無効なものと解すべき…」

 

あくまで下位裁判所レベルの判決に留まってはいるものの、こうした考え方は未だに根強い模様です。婚姻意思を欠く、無効なもの…という表現を判示において示しています。

 

そもそも婚姻は異性婚を前提としているから、同性婚は婚姻とは認められないし、初めから婚姻として効力を持っていない」という事を言いたいのだと解釈できます。

 

 

 

 

もう一度、同性婚についての条文を記載しておきます。

 

日本国憲法

第24 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

 

さて、実は少し先ほどの説明からすれば変な話化もしれないのですが、この条文、同性婚を否定する根拠にも使えるのですが、同性婚を肯定する根拠にも使えます。一見すれば、同性婚を否定する根拠としてしか使えなさそうですが、学問的な考え方として肯定する見方はキチンとあります。(政府・裁判所は同性婚を肯定する憲法への見方はしていませんが……。)条文の解釈次第で、同性婚の自由って導き出せえます。

 

 

 

同性婚否定説(通説)

「婚姻とは両性の合意に基づいて成立するものだから、異性婚を前提としている日本においては同性婚は婚姻ではない。」という考え方を政府・裁判所(あくまで下位裁判所レベルですが)は一貫して行っています。こうした条文上を形式的に考えていくみかたが今の日本では強いです。行政実務や現状・学者間で通用している考え方はこちらです。前半に述べた考え方が同性婚否定説にそのまま対応します。

 

 

同性婚肯定説(有力説)

しかしながら、憲法は、こうした同性婚を否定する考え方の根拠にもなりうる一方、同性婚を肯定する根拠にもなりえます。

 

法律の条文は、「解釈」によって意味内容が変わります。同性婚否定説は憲法24条を素直に読んでいく、という解釈の仕方を採用していますが同性婚肯定説ではまた別の解釈の方法を採っていく、という事になります。

 

こうした「解釈の変更」には改憲手続きは伴いません。つまり、実質的に同性婚の自由を認められるように憲法24条の意味内容を変化させつつ、厳しい改憲手続きを踏まなくてよいという事です。日本の憲法は改正手続きが厳しい(硬性憲法)ので解釈改憲であれば、比較的流動的に同性婚容認への転換は可能になってきます。(国が重い腰をあげれば…という話は勿論あるのですが。)

 

まず、注目すべきは憲法24条において、同性婚は直接的な禁止がされているわけではない、という事です。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と書いてあるだけです。

 

憲法に直接「同性婚、ダメです。」という旨の文言が書かれていれば同性婚の自由を導き出すことはいよいよ困難になってきますが、そうではありません。これが同性婚肯定説の発想の足掛かりになってきます。

 

次に考えるべきことは「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」という文言がどういう背景を持って制定されてきたのか?という事です。

 

 仮に、「両性の合意のみに基づいて」という文言が「同性婚の禁止」を意図して設定されているのならば、同性婚の禁止、という趣旨が憲法24条から読み取る事はできます。

 

しかしながら、この「両性の合意のみに基づいて」という文言はそうではない別の意図を経て設定されています。特別な同性婚の禁止の意図は無いとも言えます。

 

 「両性の合意のみに基づいて」というこの条文はかつての明治憲法の時代の結婚観を反省していることから作られています。

 

いわゆる明治憲法下では男尊女卑思考が社会全体において通用していたので、婚姻関係においても男性と女性とのパワーバランスは偏っていました。

 

夫が亡くなった時の法定相続権が妻には無かったり、政治活動の自由にも制限がありました。また、婚姻している女性は売買や賃貸借等の契約を夫の許可を得なければ出来ないような状態でした。法律的にはもはや無能力者のような扱いと散々なものです。

 

 そんな時代ですから、婚姻についても女性が配偶者について各自検討をしていく、という事がしづらいような状況であった事は想像に難くありませんし、実際にそうであったようです。

 

 だからこそ、「両性の合意に基づいて婚姻を成立する」、つまり両性が平等な立場で婚姻関係を形成していくことを意図しているのですが、そうなればこの文言から読み取れる趣旨は同性婚の禁止ではなく「配偶者間の平等」です。したがって、この「両性」という文言は異性婚が主流であったことから形式的に設定された文言であるにすぎないし、配偶者間の平等が本来的な趣旨である。この条文は同性婚を禁止する趣旨を持ったものではないから同性婚の自由を導く事は可能である。という風に考えることが出来ます。こうした考え方を(同性婚肯定説)といいます。

 

  • 最後ちょこちょこと…

 

個人的にはこうした24条の解釈論についてある程度勉強をしていたのでどうにもこれは違憲状態ではないのか?という事は感じていました。しかし、どうにも、行政は腰を上げて動いてくれそうかと言われると、個人的には懐疑的だったりします……。

 

 

現実的に同性婚の自由が認められるとしたら具体的な同性婚の効力を行う裁判が起きて、最高裁判所憲法判断次第ではないか……。と個人的には感じています。

 

先に述べた裁判例もあくまで下位裁判所レベルにすぎませんし、違憲判決が下れば国としても法整備を行わなければいけなくなります。

 

違憲判決が出る、という事はざっくり言えば「行政から国民に対する不当な権利侵害があって、それを公的な機関である裁判所から判断された。」という事になります。そうなれば流石に国も動き出さなければいけないでしょう。そんな状態を維持する事は国としても許されません。同性婚の自由を保障するために民法や戸籍法等の改正もされるでしょうし、婚姻届出を受け付ける事務内容の処理の仕方にも変化が出てくるでしょう。

 

同性婚の自由が直接的に問題となる事件が起これば24条の解釈論が争点の一つになるかと思われます。今の同性婚の現状を考える上では外せない条文ですし、それを書いてみてはどうだろうか。という事で記述をさせて頂きました。

 

ご拝読、ありがとうございました。

姿勢について

発達と姿勢などいろいろ

 

皆さんはじめまして(あるいはいつも迷惑かけてます)。姿勢についての投稿を今回させて頂きます。

 

…待っててくれた方、もしかしたらいるかもですが、すみません。先日はアンケートにご協力頂きありがとうございました。369人もの方がアンケートに協力して下さり有難かったです。どこの馬の骨かも分からぬ者のツイートを拡散したりふぁぼしてくれたり。通知が沢山きて驚きました。とにかく助かりました…。

 

個人的に気になっていたテーマという事もあったので、「姿勢と発達」というテーマで今回文章を書かせていただきました。

 

  • アンケートの結果と普段気になっていた事
  • 一般的に言われる、姿勢の悪さとその影響
  • 発達障害と姿勢の関連性って何か考えてみた

4.最後に。 ちょっとお詫び

 

1.アンケートの結果と普段気になっていた事

まずは、アンケートの結果です。

 

・姿勢悪い方→ 87.8%(288人)

・姿勢良い方→ 12.2%(40人)

※概算です。確認用は除く。回答人数は328人。

 

案の定というべきか、姿勢が悪いと回答した方のほうが圧倒的に多かった模様です。パッと見で数値だけを見れば、何らかの相関関係はありそうだというのが正直な印象でした。

 

 

時間が空いたときに、発達障害の子供たちの面倒を見るボランティアをちょこちょこさせて頂いているのですが、やっぱり、全体的に背筋がフニャッとしてる感じの子が多いようで。なんとなく気になっていました。

 

 

 

・なぜ、「姿勢」と発達障害傾向について関心を持ったのか?

 

とある方が紹介しておられた本が初めのきっかけでした。「医師の作った「頭のよさテスト」(著:本田真美)」という本を読んでいる最中、姿勢が悪いという事は脳を非効率に使っているという事である。との記述が在りました。脳の非効率の使い方を改善することでもしかしたらなんらかの形で発達障害傾向を改善させることが出来るかもしれない。と浅はかながら考えたのがそもそものきっかけでした。

 

先に記述させていただいた子供たちの件もあって気になっていたので「いっちょ調べてみたいなぁ」と思い今回書かせていただいております。

 

2.姿勢の悪さによって生まれる影響(一般的に言われているもの)

 

  • 目からの情報処理にムダが生じる、という点

 

詳しく上記の「医師の作った頭のよさテスト」の内容に触れてしまうので書けないのですが、姿勢が悪くなることで左右の目で見え方が違ってきて、その左右の目から入力された情報が、ずれてくるから脳がそれを修正する必要が出てきてしまう…というカラクリらしく。そうなれば、脳の使い方としてはやはり非効率になってくる。ということが言えるようです。

 

 

  • 「脳の栄養不足」

 

脳は基本的に酸素やブドウ糖を消費する器官で、これらが不足すれば脳は働きづらくなって、頭の回転は遅くなりやすくなります。脳に行きわたる全体の血液量は全体の血液量の15%ほど。この脳に行きわたる血液によって、酸素・ブドウ糖を供給をしていくことが出来れば、脳に十分な栄養が行きわたっている状態になるのですが、姿勢が悪くなることで……。

 

頭が垂れ下がるような形になり、頭の重みで、首の筋肉や血管・神経が伸ばされることになるので、物理的に脳に供給される血液量が減り、結果的に、ブドウ糖や酸素の供給が充分に出来なくなって、頭の回転が鈍る。ということが起こりやすくなってしまいます。

 

また、酸素を取り入れる量にも影響が出てくるようです。

 

二重の過程を経て、酸素とブドウ糖の不足が起こってくる…そうなってくると、エネルギー不足になりますので、精神活動も円滑に行えなくなってきます。

 

 姿勢の悪さの影響によって、発達以前の問題として、脳を合理的に使いづらくなってしまう部分がある…ということが考えられます。

 

食事についてもやはり同様の模様です。脳はちょっと他の部位と栄養の消費について事情が違うようなのです。脳は多量のエネルギーを使います。摂取する栄養素のうち、割合でいうと24%ほどを使います。高度の精神活動を行うでの代償として、これだけのエネルギー量は必要になります。そして、三大栄養素(脂質・たんぱく質・糖質)のうち、使用できる栄養素は糖質から作られるブドウ糖だけ。脳にあるエネルギーの「検問所」で、脂質とタンパク質はつっぱねられてしまいます。しかも、ブドウ糖を貯めることも出来ません。

 

だからこそ、脳へ栄養素としてブドウ糖をキチンと補給し続ける必要が出てきます。だからこそ、定期的な食事が脳を大切をすることにつながってくるようです。

 

  • アライメントの不良・エネルギーの過剰消費

 

人の体は頭部・体幹・上肢・下肢の4つの区分で構成されている、という見方があります。「良い姿勢」と言われているときはこの4つが噛み合っている時、ということになります。噛み合っていれば勿論体にとっても負担が少なくエネルギーの消費もセーブすることが出来るのですが、そうでなければエネルギーを浪費しがちです。

 

3.姿勢と発達

 

発達障害の定義は以下のようになります。

 

発達障害……達期のなんらかの原因により、中枢神経系に障害が生じた結果、認知、言語、運動、社会的技能等に遅れや歪みを示すもの

 

こうした発達障害の定義を辿って、姿勢の悪さは発達の歪みによって生まれた副産物である、という可能性も考えられている模様です。

 

先に書かせて頂いた関わらせていただいている子供たちもやはり姿勢が良くない子が多いような印象がありました。「正しい姿勢を獲得する事に失敗してしまった」という人達はどうにも多いように思うのです。幼少期の発達の失敗が、これらの姿勢が悪くなってしまった原因である。という事です。

 

 こうした複雑な課題を満足に遂行するためには「基礎」「土台」がしっかりしていなければいけません。その土台こそが「発達」という事になってきます。こうした人の感覚の発達事が、感覚統合と呼ばれるものです。この発達の副産物として姿勢も考えられるようです。

 

姿勢は、幼少期時の重力運動に対する感覚(前庭覚という感覚の区分)・自分の筋肉と関節に対する感覚(固有受容覚という感覚の区分)の中から形成されてくるようです。

 

幼児期に、前庭覚の発達を通じて、重力感覚を養い、自分のからだを周囲に適応させていくことと、固有受容覚の発達によって、自分の体の肉体に対する感覚を得ていって、実際の運動行為等につなげていくようです。

 

  • 最後に。 ちょっとお詫び

 

 表面的なものしか作れなかったなぁというのが正直な感じで残念だなぁと思います。時間もかかってしまいましたし。なかなか、専門的な内容にまで踏み込む事はできなかったです。本もある程度読んだのですが、とにかく目が回りそうでした。発達過程やら、脳やら多量の情報をまとめあげるのは無理でしたね……。歯が立たなかったです。書いててだいぶ後悔していました。

 

とはいえ、いつか、こういう事を勉強してみたいなぁ、という気持ちがあるのでどこかで本格的に勉強出来たらいいなぁと思ってます。

 

今度は、自分の書けそうなテーマを選んで、それをわかりやすく他人に伝えることが出来ればなぁ~。と思っています。

 

いろいろ、お目汚し&粗末な知識しか載せれなかったですが、ご拝読ありがとうございました。

前向きに生きましょう!という言葉が絶望の一言が代わる時

 

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 1.はじめに

 「前向きに生きろ」

 僕はこの言葉があまり好きではありません。そんな事を言われると「うるせーこっちゃぁそんな能天気じゃねぇんだよ」としか思えません。

 

僕はそういうタイプの人間でなのですが「前向きに生きる事」はやはりとりあえず生きていくためにはやはり重要な姿勢でもある、という事実は否定できないとも思います。

 

モチベーションの高さが無ければ「生産的な行動」が生まれないのも確かです。私なりに発達障害と「建設的に生きる事」について考え、ブログにて僭越ながら書かせていただきました。

 

2.消耗と憎しみ

 

 発達障害と診断をされてから2か月近くが経ちました。相変わらず日常で自分に許せない瞬間は数多い。最近だと、預金通帳をなくしたとき、心にもないことを言われた時はイライラしてものをブン投げたりしてしまいました。酷いものです……。

 

 こんなにもイライラしている原因は何だろう?とふと疑問に思っていたので地元の銭湯に浸かりながら「俺はなんでこんなにイライラするんだろうなぁ」と思いを馳せていました。そうして、とりあえずの結論に至りました。

 

 心の中に溜まりきった未処理の憎しみが多すぎるのではないか、というのがその結論でした。もしかしたら同じような人、いるのかもしれません。

 

 周りから自分を馬鹿にされた時、理不尽な事を経験した時など色んな場面でモヤモヤとした憎しみを感じることはあるのではないか? と思います。

 

 自分にだけやたらと強く当たる上司や、小馬鹿にしてくる同僚・家族等、そうした人たちに接するのは嫌ですが、私たちは表面上は体裁を作る必要があるので、頑張ってそれ相応の非難を浴びない態度を作ります。

 

だけど、モヤっとした憎しみはやはり存在します。「なんで自分がこんな思いをしなくてはならないのか」という不快で屈辱的な感情を心の奥に封じ込めながら日々を過ごすことになるのですが、こうした感情は自分の精神の中に確実に蓄積されるのだと思います。そして、時間とともに熟成され、もっと芳醇な不快さを醸し出します。

 

 「なんで自分がこんな思いをしなくてはならないのか」そんな事を感じる経験があまりにも多すぎると、ストレス耐性はやはり落ちてくると思います。我慢我慢の連続になってきて、消耗している状態になってきます。

 

定型発達の人でもこうした事で苦しむのだから、発達障害者等なんらかのハンデを負っているはなおさらこうした状態に陥りやすいのだろうと思います。特性上出来ないことを目の当たりにし、「なんでできないのか」「甘えるな」そういう言葉を受け続けると、て自責と他者に対する敵意は蓄積されます。

 

 そうした経緯を辿れば、ちょっとした事でイライラしやすくなる事はごく自然なことのように思います。発達障害の影響で怒られ過ぎて「なんでここまで怒られるのか」とか「お前らになんか発達障害の苦しさが分からないくせに」という思考が強化されてしまいます。そうなると余計に執着してしまって憎らしくなります。

 

3.前向きに生きる事の難しさ

 

 そんな時に「前向きに生きろ」と言われて我々は素直に拍手を送れるほど強くはなれないのでは、というふうに思うのです。我慢に我慢を重ね、消耗しきった時に言われるこの言葉は結構なキツイ言葉であると思います。

 

言った人からすれば「前向きに生きろ」と励ましの言葉であると思うのですが、受け取った側からすれば頑張っているのにこんな事を何故言われなければならないのかと思うのではないかと思います。極端な場合だと「もっと苦しめ、もっと頑張れ」という絶望の一言として解釈される可能性もあります。

 

 頑張って頑張って、消耗した後だというのに、そんな時に能天気に上記の言葉を投げかけられると結構ゲンナリするもんだと思うのです。

 

4.自分なりの前向きに生きる

 

とは、いうものの前向きに生きないと憎しみに囚われるだけでもきついだけである、と思うので、とりあえずある程度はそうした姿勢を身につけないといけないとは思います。

 

今の自分は不幸を覚悟して、その中で幸せを考えていく事が理想だと考えています。

そのためにも......

・段から感じる不快な感情を蓋をせず意識化して、心の中で解決する(我慢せずにイライラした時は許せる限りどこかで感情を出す。心理的に解決をする。たとえば、ノートに書き殴るとか)

・辛い気持ちをエネルギーとして毎日を過ごす(悔しい気持ちを出来るだけ、生産的活動に繋げる)

・不幸にしかなれないとある程度割り切る。(不幸が人間の前提だと意識する。)

・今の良いことが起きるための一里塚と考える。(長期的枠組みで物事を考える。)

 

という事を意識したりを日常で頑張っているつもりです。が!!

立派に書いては見たものの全然できません。ムズイです!

なるべく、こうした意識を定着させたいのでこうしてブログとして書いてみたりしてます。

 

前向きに生きることは心理的に辛いのですが、強くなれる良薬のようなものなのかな、とも思います。なるべく、多くの人の「生き辛さ」を少しでも和らげることを目標に、悔しい経験を活かしながらこのブログは書かせてもらっていて、今後もこうした活動を日常の合間でやっていきたいなぁと思います。前向きになるための意識付けとして書かせていただきました。

 

なんだか乱文ですが、前向きに生きる事の難しさ、について記述させていただきました!

読んで下さった方、ありがとうございました。

 

 

発達障害関連、とりとめのないことをのんびり書いてみた

発達障害ライフハックブログをはじめました、目つき悪いマンです。

 何故かネットに繋がらないパソコンが遂にネット復帰を果たしたので喜びに満ち満ちています。そんなこんなで書かせていただきました。

 

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発達障害を持つ人と、生きる力

今年もあともう少しで終わりです。今年1年は就活で失敗でボロボロの状態から就職で1年中ボロボロと地獄のような1年でした。これでも、おみくじは「吉」だったし、活躍の運気がどうのこうのとも書かれてたんですがね...おかげで年明けからはフリーターです。もうかえって大凶くらいひいちゃったほうがいいこと起こるかもしれない。

 

発達障害者は強い人になれる資質が大きい人なのではなかろうか、という思いをすこ~し持つようになった事が今年の良かったことでしょうか。

 

どうしても馬鹿にされたり怒られたり貶される等つらい想いはしがちなんですが、だからこそ人には同じようにしない、という姿勢を保てることが出来たり、辛さから生まれるエネルギーを生産的な活動に結び付けることが出来たり...そういう状況の中で頑張っている人達を数多く見れたなぁ~というのが嬉しかったことです。

 

世の中は不平等だけど不平等な状態の中からきちんとここまで生きていけれる事は大きな大事業なんだろう...と思ったり。我ながら、よく生き残りました。(もっとも、私たちより遥かに過酷な状況で頑張っている人からすればおこがましいかとは思いますが)

今の立ち位置はまぁちょっとあれですが人生のスタートラインが厳しいほうだったのに出来る限り頑張れたのはわりと自信です。

 

とりあえず皆さんほんと大変ですけど、生命活動続けましょう。

 

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チラ裏目

仕事見つけないとほんとどうしようもないけど...

まずは続けられそうな仕事を見つけて、お金を貯めて大学院に働きながら行くことが当面の目標です。学ぶ学問は臨床心理、主に発達についてを学べればいいなと思います。私がさんざん苦労した発達障害についてもっと知りたい!という考えがあるからです。

 

別に心理職は就けるとも思ってはないので完全な自己満足ですが行ってみたいなぁ~と診断を受けて数日後にふと思い浮かびました。大学のあの研究機関としての雰囲気も節操のない雰囲気も好きだったので、死ぬまでには行きたいなぁと思います。

学んだ知識を還元する機会は専門職でなくてもどこかにあるはず...と思っています。

 

貯金の貯まるペースからして行けるとしたら少なくとも後3年くらいみたい。

 

お金の問題だけでもなく、英語の偏差値病的に低いのと心理学とかの専門試験どうやってパスするべきか(試験範囲とか正直よくわからん)等問題も数多くありますが、その日に備えてやっていきましょう。

 

来年1年は無職からスタートと当初予想していないスタートになりそうですが精神的豊かさを大事にまぁ生きていこうという感じです。

 

 

手が空いたときにでも他のブロガーさんみたく改装できたらいいなぁと思いつつ失礼いたしますありがとうございました!

 

一生懸命適応しようとすればするほど苦しい、発達障害持ちの人生

 

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初めまして、目つき悪いマンと言います。会社を新卒ながら早くもやめようとしており、人生のピンチを性懲りもなく迎えている最中です。

 

色々とどうしようもない新入社員にすぎなかったですが、一応は社会人になったので、ゲンでも担ぐつもりで自分の思ったことを書いてみようか思います。月並みな文章ですが書かせていただきます。

 

1.漫然とした不適応感

 小中高大と学生生活を違和感をそこそこに感じつつも、必要最低限の適応は出来、公務員試験を受験。しかしあえなく、面接で落ちてしまい私は銀行員として就職をしました。「自分はグウタラだけど、まぁ社会人になったしキチンと頑張れば成長できるだろう...」という考えを持ちながら、学生生活の中で違和感をごまかし社会人生活は始まりました。
 しかし、まあ案の定というか上手く行くはずもなく。事務処理を間違えまくるわ、電話口にて名前や電話番号を聞き間違るわ、重要書類をなくしかけるわで程度も著しくダメ社員として生きていました。当然周りからは怒られ改善を促され努力も求められますが、当たり前のこと残る気力を振り絞って努力をしても、障害をカバ-出来ず「もうどうにもならないのでは」という後ろぐらい気持ちは消えずにごまかせないものになっていきました...「周りの同期はどんどん上達するのに自分はさっぱり」という状況に耐えかねて発達障害の診断を受け、もうどうにもついていけないことを悟り、退職しようと考え、いまに至りました。
 
2.自分を正しく知ること
 
 自分は加藤諦三さんの本を好んで読んでいます。その中で加藤先生は自分が自分であることの大切さや自分の価値観を大切にしよう!他人(世の中全体)の価値観を内面化して自分の持つ価値観と混同させないようにしよう!という事を書いていました。この発想を忠実に辿ることが、発達障害を持つ人々心穏やかに暮らすための一つの方法なのではないかと考えるようになりました。どういうことかというと...
・自分が得意なものは何か?認められたいがために、あえて別の分野で人と競っていないか?
・自分が何を信じていて、何を信じていないか
・自分が何が本当は好きで何が嫌いなのか
等を本音で考えて、自分の考えた本音をキチンと尊重しよう、という事です。
いまの社会ではこういう発想をしづらいとは思うのですが、やはり憧れます。
一方、人から認められたい、見返したい...という意志のほうが強くて、なんだか息が詰まる辛い努力に私たちは走りがちなようです。発達障害を克服するための努力も私にとっては辛い認められるための努力でした。「負けないように、馬鹿にされないように」を意識しながら発達障害をカバーするのは大きな負担でした..
今度の転職では、心の安定をもって働けるようになれればな...と思います。
難しいかと思いますが、それを目指してぼちぼち頑張ろうと思います。