のびた系男子の日記

ADHD(グレー)のなのでその対策の備忘録として

障害者雇用はすすみません(白目)

障害者雇用はすすみません(白目)

 

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某日、冬。障害者雇用での就職を検討していたので、私はハローワークにて求人検索をしていた。ハローワークの明かりは妙に薄暗い。どうも気分が滅入る。

 

今、見ているのは市役所や国家公務員の非常勤求人である。求人の内容を見てまた更に気分が滅入っていたところだった。

 

「※但し身体障碍者に限る」

「身体障碍者専用求人」

 

……。役所の採用試験の募集資格だ。これを見ると「役所も大変なのは分かるが、いくらなんでもこれはね。」という気分になる。ならないだろうか?私は大いになるのである……。

 

「行政て障害者を支援する役割やろ、んな馬鹿らしい話ね-わ!これじゃ、障害者雇用を進めようとする民間企業に示しがつかないだろ!」という具合にムカつくなどしてしまう。

 

 

……。少々荒れてしまった。

 

まぁとにかく、こういう光景は、まさに知的・精神障害者の雇用の難しさが現れている瞬間であるように思う。国や地方公共団体ですらこの扱い。勿論、こうした傾向は民間企業にも見られる。身体障害者のほうが就職に有利な傾向はあるようである。

 

 

 こういう傾向を見ると、結局のところ、企業が行政機関が求めているのは「かたち」の支援にすぎない、という事を実感させられる。「かたち」の支援って何かというと「こうすれば障害者だけどそこそこ働けますよ」とハッキリ分かるパッケージプランの事だろうか。

 

 月並みだけど身体障害者なら「かたち」の支援が通用しやすい。身体障害は目に見える。だから、「かたち」の支援が出来やすい。歩けない人には、スロープを用意するなり作業をしやすい机を置くなどすれば目に見えてやりやすくできる。それなりに整理されたパッケージプランは威力を発揮しやすいんじゃないだろうか?最近はそんな事を考えている。(※とはいえ、身体障害者達の方なりの苦労がある事は、私には見えないけれどある事は、最低限認識しているつもりではあるが……)

 

 一方、知的障害・精神障害は身体障害とは違って物理的な機能は揃っている。その代り、精神活動上の支障が問題になる。だからこそ、わかりにくい。

 

 最近よく思うのだけれど人間は一人一人違う。親も違えば、経済的な条件も違う。住んでいる場所も友人も違う。色んなものが、とにかく違う。障害もきっとそうなんだろう。知的・精神障害の程度も勿論違う。

 

だけど、企業や行政はこうした知的・精神障害者達にも「かたち」の支援を欲しがっているような気が最近はしている。「とりあえずこれを適用すれば良い」という「かたち」であり「パッケージプラン」である。

 

こうした支援を受けると、なんとなく押しつけられたような気分になる。「お前らにはこうしときゃそれでいいんだろ。」と言われたような感じに近い。だけど、精神障害者にはこういう「かたち」の支援は馴染まない。障害内容に個人差があるからである。身体・知的・精神障害者の就労状況を見る機会が多くなった今、就労活動を通じてこういう事を感じている。

 

こうした支援に対して勿論いい気分はしない。言い方は悪いが「雑」という印象を覚えないだろうか。支援として投げやりである。そんな気分はしないだろうか?身体障害者の方々も表面上の支援だけしか受けれないし、知的・精神障害者はイマイチ合っていない不快な支援を受けることになる。身体障害者も知的・精神障害者も「かたち」の支援にウンザリする事は無いだろうか?

 

 

こういう、「かたち」の支援にはあるものが決定的に足りないように思う。それは、「その人への関心」なのではないか。

 

「どうやったら伸びてくれるか?」という事を考えてたり、「どうやったらやりやすいだろうか?」という事を建設的になって考える姿勢である。それは、「その人を理解する事」に通じる。それこそが「他者に対する関心」であると私は思う。

 

むやみやたらに怒って伸びる人もいれば、そうでない人もいる。怒って伸びる人には、ある程度怒って伸ばすというやり方は有効かもしれない。だけど、そうでない人には勿論有効ではない。そういう人には定期的に成功を実感させるような経験を得て貰って、自信を持ってもらうように工夫するとか、そういう方法が良いだろう。こうした事を日常から探り当てる事は出来ないのだろうか。その作業こそが「関心を持つこと」ではないか。

 

「どうやったら、ミスが減るか?忘れ物が減るか?」

「どうやったら安心して貰えるか?」

 

こうした事を建設的に考える事が、障害への対策になる。むやみやたらに否定せず、障害者が安心して働けるような態度で接するとか、一緒に対策をやりやすい環境ややり方を整えるなりして、「心を汲む」事は出来ないのだろうか。彼らの生きやすさはそうして作られるはずだし、「その人自身をよく見る」考え方って出来ないのだろうか?もっといえば、障害者だけでなく、健常者にもこういう「育成」をする事は出来ないのだろうか。

 

そして、「かたちの支援」だけではこうした部分に手が回らないのではないだろうか。だからこそ、「関心を持つこと」は重要ではないだろうか。

 

とはいえ、企業も慈善事業でないし、難しい部分が多数あるのだろう。採算をとらなければいけない難しさも背負っている。自分のような社会を知らんプー太郎がこんな事を言ったって、企業にとってはそうはいかない事情もあるのだろう。ただ、障害者にせよ健常者にせよ人が育つにはこうした視点が必要であるように思うのである。こうした目線で育てるからこそ、いざという時の本当の強さが出てくるのではないかとも思うのである。

 

だから、こうした本当の意味での「育成」を考えなければ本当の障害者雇用は成立しないように思う。障害者雇用が進むためにはこうした視点が必要なのではないか、と最近おぼろげながらに思い、記事とさせて頂いた。

 

 

≪終わり≫